育てたいと欲しいはセットor?

昨日の子供がいない、と、親ではない
という言い方の話に引き続き
重箱の隅をつつく的なシリーズの2です~

いや、結構真面目な話なんだけどさ。

子どもが欲しかったという場合、
ってそこに「育てたい」が必ずほぼセットのような気がするのよ。
まあ一般的な話として違う人もいるよという例はさておいてね。

子供が欲しいといって産んでその子が何かの事情ですぐ養子に出されたとしたら
育てるが抜け落ちる
それでいいか、というと、どうなんだろう?

子どもが欲しいっていうんで、じゃあ取り上げてもいいかって聞いたら
それはイヤだと思うふつう。(昔の子だくさんの時代で養子も多かった時の話ではなく今の話ね)

ふつう、子どもが欲しいの言葉の中には育てたい、も一緒にセットされているんじゃないかな。
(実際育てて育児の大変さでもういや~とかあったとしてもそれは別として)

自分の子どもではなくても子が欲しいという場合に(イメージするのは養子が一般的な
国でのキャリアウーマンが養子をもらう場合とか)やはり育てたいはセットな気がする。
そしてかなり育てたいは大きい。

汚れてないって変だけれど
なにか純なものを育てていくという欲求は
人間の本能としてあるんだと思う。
人によってその大小はあるけどね。

だからペットに愛を注ぐ、植物を育てるという行為も同じ。

育てる抜きに
子供が欲しいの場合は自分の血をつなぐ、子孫を残すという原始的な
生物の欲求。
育てるはその次のレベルの欲求のような気がする。

育てる、慈しむ、ということは愛を与えること。
それは自分にも愛が返ってくるということ。
それを求めているのかも。

結婚しなくてもいいから子どもは欲しかったとキャリアウーマンの友だちが言っていた。
この時に、彼女の言葉に子孫を残すという本能より育てたいという方の欲求を感じた。

子どもが欲しくないという場合も
育てるという行為は子ども以外でしていると思うんだ。
それは部下だったり、犬猫インコだったり、ある意味仕事だったり
会社だったり芸術だったり。

人間って、対象はどうあれ育てる慈しむなしに生きられないんじゃないのかな。

ーーー

この年になって思ったのは
自分がやりたくてできなかったこと
かなえられなかった夢とか
自分の子どもがいたら、同じ夢ではなくても
夢をかなえたり、やりたいことで成功する人生を送って欲しいって
思うだろうなっていうこと。
そういう願いを注げる自分の血を分けた存在があったらって思うよわたし。

年老い行く身に希望がそこにある感じ。(といって思い通りに育たないのは世の常なんだろうが)
よく親の果たせなかった夢を子どもに託したってあるけれど
年をとってくるとすごく、ああ、わかるな。

何かの話の折に「子どもがいない人には分からない」って、
子どもが欲しかった人に対して言っちゃった人がいたら

「子どもを育てられない切ない気持ちがあなたに分かりますか」

って聞くのがいいんじゃないかな。

非選択ノンファンの子どもを育てられない気持ちの切なさをもっと尊重しよう
って
社会がなってくれればいいの。

お互い皆それぞれの人生歩んでいて懸命に生きているんだからさ、
上から目線はない社会がいいね♪

国際チャイルドフリーデイ サイト

日本語版ニューズウイークの記事 興味深いな、この記事。海外でも同じようなことあるんだな~とかいろいろ。

 

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